Les Essais d'Unevertu

2009年11月20日

「奇跡のリンゴ」木村秋則さん講演会

Filed under: Essay,農業 — Vertu @ 7:06 午後
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宇都宮市野沢にあるパルティ(とちぎ男女共同参画センター)にて、「奇跡のリンゴ」で知られる木村秋則さんの講演会が開催されました。

栃木県農政部の主催です。かつてお世話になった経営技術課の職員の方々と懐かしの再会を果たしました。

木村さんの近代科学技術に対する警鐘とも言えるお話、とても興味深く拝聴いたしました。ただ、会場に詰め掛けた多くの参加者の皆さんもお気づきになられたのではないかと思いますが、木村さんが「自然栽培」という観点からなされるお話は、この講演会の題目である「栃木県有機農業推進講演会」と必ずしも合致するものではありませんでした。平成18年施行の「有機農業の推進に関する法律」の第2条「有機農業の定義」によれば、有機農業とは「環境への負荷を低減した農業生産方法」のことで、「化学的に合成された肥料及び農薬を使用しないこと、並びに遺伝子組換え技術を利用しないこと」を基本とします。この意味では「有機農業」と木村さんの「自然栽培」に違いはありません。しかし、堆肥も含めた肥料の使用と圃場の耕起さえも否定して、人為的な土壌改善措置よりも自然環境や土壌内生態系の均衡に依存する「自然栽培」は、明らかに従来の「有機農業」とは異なるものです。講演会全体としては、不思議な違和感を感じながら帰宅しました。

このブログにたびたび登場する友人の杣人クラブ会長、山川久男さんが推進する「自然農法」は、木村さんが提唱する「自然栽培」と大筋で合致しています。いつも山川さんに手ほどきを受けている私としては、「自然農法」ないし「自然栽培」の利点をよく知っているつもりです。一方で、農薬や化学肥料を使わない真正の「有機農法」に情熱を注いでいる仲間も大勢います。彼らは単に無農薬・無化学肥料での栽培を目指しているだけでなく、酪農や畜産といった家畜を対象とする農業において発生する余物、つまりふん尿を有効利用し、さらには有機農法で生じる余物、つまりわらや傷物の野菜・果物を家畜の飼料として有効利用する循環型農業を目指しています。それぞれの農法には、焦点を変えると見えてくるそれぞれの利点があると思います。ですから、「自然農法」と「有機農法」のどちらがすぐれているとか、どちらが良くてどちらが悪いとかいう話はしたくありません。おそらくそれぞれの利点を根拠として、どちらも「農業」として並存すべきものだと思います。もちろん、「自然農法」と「有機農法」について、一定の知識もないままやみくもに信奉する気持ちもありません。かんじんなのは、できればそれらについて深く、さもなければ素人でも理解可能な範囲で知識を身に付けることではないかと思います。時には「自然農法」や「有機農法」を見直すという意味で「批判的」に考察することも必要でしょう。さらに言えば、農薬や化学肥料を用いる「慣行農法」も、頭ごなしに否定するつもりはありません。日本で今この瞬間に農業に従事している大多数の農家の方が採用している農法です。現在の日本の農業は農薬や化学肥料の問題を見て見ぬふりしているわけではありません。低農薬化・低化学肥料化に向けて不断の努力が続けられています。農業高校で高校生が取り組んでいるのも、この低農薬・低化学肥料志向型の「慣行農法」です。市場が野菜の一定の収量~価格の安定と見た目の美麗さの両方を求めている限り、私たちは「慣行農法」に依拠せざるを得ません。「自然農法」も「有機農法」も「慣行農法」も、すべては人間が志向し求めた結果として社会に存在しています。そのような背景を考慮した場合、仮想敵を非難することで自陣の相対的優位性を強調するタイプの議論は、人間の生活と密接に結びついた基本的な営みとしての「農」をめぐる問題になじむ性質のものであるとは必ずしもいえないかもしれません。相対的優位性の強調がそのまま議論の正否を決定する上での正当化につながるとの認識は、多くの場合誤解を生む要因であるだけでなく、プロパガンダ合戦を招くことで議論の閉塞につながってしまうような気がします。

「農」が備えている重層性というものを意識したいとあらためて思います。

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